長府毛利家墓所|下関長府にある紅葉の寺、覚苑寺へようこそ。

覚苑寺

長府毛利家墓所

 長府毛利家の歴代当主の墓は、功山寺、笑山寺、覚苑寺の三カ寺に分かれていますが、近代における大名家の墓制を知る上で貴重であるとして、平成26年12月2日、他の二カ寺の墓所と共に山口県の文化財に指定されました。
 参勤交代により歴代の各藩主は、国元ではなく江戸で没することも多く、長府藩主の場合も、多くは江戸で没し、泉岳寺(現東京都港区)に埋葬されることがほとんどで、国元(長府)には詣り墓を設けました。しかし、3代綱元は例外で、江戸で没するものの遺体を長府に搬送して当山に埋葬され、国元で没した二人の藩主(6代匡広、13代元周)とともに当山に眠っています。すなわち、当山に現存する墓は埋め墓であり、他の二カ寺の墓は詣り墓であります。
 
長府藩主 第3代毛利綱元公墓所

綱元公墓所

綱元公肖像画

2代藩主毛利光広の嫡男として江戸に生まれる。幼名又四郎、のち右京。父光広の死によって承応2年(1653)10月4歳で家督を継ぐ。藩租秀元の遺志により叔父元知に豊浦郡の内一万石を分知し長府藩の支藩清末藩を創出した。寛文4年(1664)江戸城で元服し、将軍家綱の片諱を受け綱元と称する。甲斐守に任じられる。綱元は在位五十六年の長きにわたり、藩政に大いに意を注ぐ。天和3年に制定した「天和御法度」は、倹約と衣服の制限など従来見られなかった細部にわたるものであった。また元禄十年春には窮民救済の法を定めこれに対する貸与の法を示すなど民政にも留意する。
和漢の学に優れ、宝永4年(1707)には歌集「七石集」を著している。
また、長府藩では赤穂浪士47士のうち10士のお預かりを命じられたが、その時の藩主。
 当寺開基。 60歳で死去。法号 龍沢院殿道正瑞霖大居士
長男の吉元は萩本藩の5代藩主。

長府藩主 第6代毛利匡広公墓所

匡広公墓所

匡広公肖像画

 元は長門清末藩の第2代藩主で、この時の名乗りは毛利 元平。享保3年(1718年)4月15日、萩藩主毛利吉元の要請により長府藩を再興し、旧長府藩領のうち3万8千石を分地された。本家筋にあたる長府藩主家を継いだ元平は、その時に名を匡広と改めた。
 享保5年(1720年)5月に5万石となる。藩政では藩財政再建のために倹約令を出したが、享保の大飢饉で大被害を受けたため、さらに倹約を厳しくせざるを得なくなった。さらに農業を奨励した。なお、匡広は和漢の学を好み、絵画にも通じ、自画像を残している。
 享保14年(1729年)9月19日、55歳で長府に没す。跡を5男・親就(師就)が継いだ。
法号は瑞泉寺殿浄活湛然大居士。
因みに萩本藩の7代藩主の毛利重就(しげたか)は藩の財政を立て直す為に農地や塩田を開発するなどし、その他諸々の産業を発展させ、多くの功績を残した名君として知られているが、重就はこの匡広の10男。

長府藩主第13代毛利元周(もとかね)公墓所

元周公墓所

元周公肖像画

 11代藩主元義の嫡男元寛の二男として江戸に生まれる。幼名は万次郎。父元寛が早くに亡くなり、父の弟元運(もとゆき)が12代を継いだが、元運の養嗣子となり、嘉永5年(1852年)の元運の死去により跡を継いだ。
 在位中は幕末動乱のさ中にあり、長府藩も尊皇攘夷、さらには倒幕の先頭に立つ長州藩の一翼を荷うなど、極めて困難な時局に直面した。藩内に砲台を構築し、文久3年(1863)5月のアメリカ商船ペングローブ号への攘夷決行に始まり、元治元年(1864)8月の英米仏蘭四国連合艦隊来襲に至る6次にわたった攘夷戦においては萩本藩、清末支藩とともに参戦。長府藩の藩邸は海岸線に近く、防衛上、不利な位置にあるため、内陸勝山の奥地、田倉の地に移すことを決意(勝山御殿)。完成までの間、元周は当山に入り本拠とした。
 また、元周は坂本龍馬のことを高く評価し、衣類や刀を下賜した他、一時金を供与してその活動を直接的に支援したともいわれている。
攘夷戦、長州征伐と藩の命運をかけた重要な事態によく宗家を補佐し、これに対処。死後の明治24年4月、維新時の功績に対し、従三位を贈られている。
法号は諦信院殿梅庵道機大居士 享年42 

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