銅像と石碑 |下関長府にある紅葉の寺、覚苑寺へようこそ。

覚苑寺

銅像と石碑

銅 像

乃木大将銅像拡大表示

乃木希典(まれすけ)像
 乃木大将は長府に帰郷の折には、かつての主君、毛利元周公や少年時代の漢学の師、結城香崖先生の墓もある当山をたびたび訪問していましたが、乃木大将死後、将軍生前より親交を重ね、将軍を今なお敬愛してやまない先々代住職進藤端堂師は、ある時長府に修学旅行に来ていた学生たちが「長府は乃木大将の故郷だというのに銅像の一つもないじゃないか・・・。」と話すのを偶然耳にしました。そこで、一念発起、「一人一銭百万托鉢」の行願を起こし苦節七年、募金は全国各地より続々と寄せられ、ついに昭和14年銅像が完成し、除幕式が行われました。
 戦時中は供出を免れませんでしたが、昭和33年、再び全国からの募金により、無事再建されました。
 碑文には『武士(もののふ)は 玉も黄金(こがね)も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ』とあり、現代語に訳すと「武士たるもの金や財産なんぞ持ってなんとする。大事なのは命を捨ててでも名(名誉)を守ることである。」といった感じでしょうか、最期まで武人としての生き方を貫いた将軍らしい歌が刻まれています。

狩野芳崖銅像拡大表示

狩野芳崖像
 近代日本画の傑作『悲母観音』で有名な狩野芳崖[1828-1888]は、長府印内で、長府藩の御用絵師,狩野晴皐の子として生まれ,初め父に画技を学び,19歳のとき,江戸に出て狩野勝川院雅信のもとに入門して画事を学びました。明治初期、フェノロサに見いだされ、日本画革新運動の強力な推進者となりました。東京美術学校(現東京芸大)創立に尽力しましたが開校を待たずして死去しました。
  当山は狩野家の菩提寺で、芳崖は幕末期の名僧霖龍和尚のもとで参禅し、大きな精神的感化を受けました。のちに「芳崖」の画号のもとになった「禅の極致は法に入りて法の外に出ること(法外)」という言葉も霖龍和尚から与えられたもので、当初「法外」と号していたのを「芳崖」と改めたのもまた和尚の勧めだったと言われています。
  1923年に芳崖の銅像は、1923年に一度建てられましたが、1943年に戦時供出の憂き目に遭い、現在の像(左画像)は1979年に生誕150年を記念してつくられたものです。

このページの先頭に戻る