黄檗宗とは|紅葉の寺 法輪山覚苑寺<下関市>当山は宇治の黄檗山萬福寺を本山とする黄檗宗寺院です。隠元禅師によって伝えられた法式を、今に伝えています。

覚苑寺

黄檗宗とは

布袋

覚苑寺

 黄檗(おうばく)宗は曹洞宗、臨済宗と同じく禅宗の一派です。黄檗宗は日本の臨済宗と同じ流れを汲み、臨済義玄禅師、さらに遡ると達磨大師を宗祖と仰ぐ宗派です。江戸時代末まで宗派名を「臨済正宗」と称していましたが、明治九年に日本の臨済宗と区別するため宗派名は黄檗宗と変更されました。
古黄檗 中国の著名な実業家、曹徳旺氏の寄付により再建された現在の古黄檗(福建省福清市)


隠元禅師    隠元禅師
 黄檗宗の開祖、隠元禅師は中国明朝時代の万暦二十年(一五九二年)、福建省福州府に生まれました。二十九歳で仏門に入り、四十六歳の時、御自身の出家された故郷福清県にある中国黄檗山万福寺(古黄檗)の住職となりました。隠元禅師の名声はその当時、中国国内にとどまらず、遠く日本にまで響き渡っていました。そして、長崎興福寺の僧・逸然らからの度重なる招請に応じて、一六五四年、六十三歳のときに三十人の弟子や工匠を引き連れて来日。当時の日本では、江戸幕府により鎖国政策がとられていましたが、長崎の港のみは開かれており、当初、長崎の興福寺に入りました。来日三年後には帰国する予定でしたが、前妙心寺住持の龍渓ら日本側の信奉者たちの働きかけにより、隠元禅師は江戸へおもむき、第四代将軍徳川家綱に拝謁。家綱も隠元に帰依し、幕府によって京都宇治に広大な土地が与えられ、大本山黄檗山萬福寺(新黄檗)が創建されました。その後も隠元禅師の徳望と禅風に触れ、後水尾法皇や諸国の大名など帰依者は続出しました。黄檗宗は徳川幕府をはじめ、各地の有力大名の庇護の下、この時代に最も隆盛を極め、全国に末寺は一千カ寺を超えました。
 古来、中国の禅寺においては「清規」(しんぎ)と呼ばれる規則の下、修行僧たちは集団で生活を送り、修行に打ち込んでいたわけですが、日本の禅寺ではその頃、禅の修行があまり実践されなくなっていました。そこで隠元禅師は「黄檗清規」を著し、修行においては厳格な規則を守ることを主張し、それが僧堂の復興運動へとつながっていきました。ですから、隠元禅師の出現は当時の日本の禅門各派に大きな影響を与えたとも言えます。
 鎌倉時代に栄西を始めその他の祖師方によって日本にもたらされた日本の臨済宗は日本の風土の中で独自の発展を遂げていきましたが、黄檗宗について語るには、中国におけるその後の仏教の歴史について知っておく必要があります。
 大陸では、百年近く中国を支配したモンゴル民族の元が倒された後、一三六八年に明が建国されましたが、明代には、中国の古来の宗教であり、中国思想の根幹をなす儒教、道教と仏教が一致しているという三教同源の思想が強まり、また、更に仏教の中でも融合傾向が強まっていきました。各時代にもたらされた教えにより各教団が成立し、宗派意識の強い日本に対して、中国の仏教は、綜合仏教的、超宗派的な傾向が特徴であり、禅宗(臨済系)は中国仏教の基盤となり、すべての仏教の受け皿としてとしての働きをしたといえるでしょう。元代の中峰明本(ちゅうほうみょうほん)も禅と念仏の習合を唱えていますが、明末になると、禅浄一致のほか、禅宗教団が華厳・天台・真言の諸宗をも包摂していき、それぞれのすぐれた教えを取り込んでいきます。
 この傾向が隠元禅師の禅にも強くみられ、浄土教や密教の要素がうかがえ、浄土教の浄土往生や念仏と坐禅を組み合わせた念禅一致の特色がうかがえます。ただし、黄檗宗の念仏が浄土教の念仏と決定的に違うのは、黄檗宗の説く念仏とは「観想念仏」、つまり「心の中に仏の姿を念ずる」ことであるのに対し、特に日本の浄土教においては、法然、親鸞の影響下に強くみられるように、口で名号を唱える「口称念仏」(称名念仏)がすべてであり、また、「西方極楽浄土におられる阿弥陀様」と自分の身体の外に仏を求めているという点です。
 黄檗宗の教えは「唯心の浄土・己身の弥陀」という言葉に要約されますが、この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものです。よって、救済主の阿弥陀仏も仏の浄土も自己を超えたところに存在するのではありません。自分の心の中に極楽浄土を見いだし、心の中にいる仏様に気づかされることが重要です。
 しかし人間生まれて生きていくうちに、世間の煩悩や欲望に侵されて、 もって生まれた仏様の心を汚してしまっています。ですから黄檗宗では禅の実践を通して、己を見つめ直し、自らの仏に磨きをかけていくことを教えの柱としています。そして、悟りに至る方法は、参禅弁道が中心となります。

黄檗山萬福寺

 ところで、黄檗山萬福寺では開祖隠元禅師以降、第二十一代まで中国人僧侶が管長を務めていました。また、建物も中国の明朝時代末期頃の様式で建てられ、読経の発音は唐音と呼ばれる中国式の発音で読まれ、さらに「梵唄」(ぼんばい)と呼ばれ、お経に節(メロディー)を付けて、多種多様な鳴物も加え、音楽を演奏するかのような読経も行われます。また、儀式作法、料理(普茶料理)に至るまで、すべて中国風で山内は一種独特な雰囲気を保っています。長府と縁の深い女流俳人、田上菊舎が萬福寺に詣でた際、「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」の句を詠んだことは有名です。

黄檗山萬福寺

 黄檗僧のもたらした中国文化は他にも、宗祖隠元と弟子の木庵、即非の三人を称して、黄檗三筆とも呼ばれるその書風、その他にも木魚、煎茶道、印刷技術など多岐にわたり、隠元の名に由来するインゲン豆のほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元禅師だといわれています。
 なお、余談ながら、鎖国時代、長崎は多くの華僑でにぎわい、また、黄檗宗発祥の地ですので、唐寺(とうでら)と呼ばれ多くの観光客で賑わう“福”の付く寺、崇福寺、興福寺、聖福寺、福済寺の「長崎四福寺」は全て黄檗宗に属しており、中国的異国情緒を楽しむことができます。また、江戸時代、多くの有力大名が黄檗僧に帰依した関係で、全国各地に大名家ゆかりの黄檗寺院があり、当山近隣では、萩の東光寺や小倉の広寿山福聚寺等でも往時の隆盛の跡をうかがうことができます。 
  

 “日本禅宗中興の祖”とも称され、日本文化発展の上でも多くの足跡を残された隠元禅師には、その功績により、時の皇室より遠忌ごとに多くの国師号・大師号が賜与されていますが、それは以下の通りです。 
宣下年 皇室 称号名
寛文十三年
(1673)
御水尾法皇 大光普照国師
特賜
享保七年
(1722)
霊元天皇 佛慈廣鑑国師
50回忌
明和九年
(1772)
後桃園天皇 径山首出国師
100回忌
文政五年
(1822)
仁孝天皇 覚性円明国師
150回忌
大正6年
(1917)
大正天皇 真空大師
250回忌
昭和47年
(1972)
昭和天皇 華光大師
300回忌
令和4年
(2022)
今上天皇 厳統大師
350回忌
黄檗禅師は黄檗宗の開祖?

日本の黄檗宗の開祖は日本に法をお伝えになった隠元禅師でありますが、その法源は臨済義玄禅師まで遡ります。その臨済禅師の本師は黄檗希運禅師というお方です。
このお方は「黄檗」を名乗ったので、黄檗宗の開祖だと思い込んでいる方もいらっしゃいます。
 しかし、それもあながち間違いではありません。希運禅師は百丈禅師の直弟子でありますし、臨在禅師の師匠でもありますので、黄檗宗の法源のお一人と言っても過言ではありません。
 また時代は違っても隠元禅師と同郷の福建人であります。
お二人の接点はと申しますと、希運禅師の出家得度が隠元禅師の故道場、即ち福州のわが黄檗山でなされていることであります。因って希運禅師も百丈懐海に嗣法して江西省鷲峰山に黄檗寺を開かれた際、望郷の念抑え難く黄檗(きはだ)茂る福州の黄檗山を名乗られたのであります。
因みにこのお方は身長は7尺あり、額には礼拝を多くしたことによる肉腫、いわゆる礼拝だこがあったとのことです。

黄檗禅師

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